昨日はご苦労さんで、
7月9日のDDAのサマーセミナーは、60名近くの参加者があり、大変盛り上がりました。6時から9時30分迄,久々にわが社の工場一杯の人が集り、楽しいセミナーが開催されました。私の講演は7時過ぎから約1時間近く、お話しさせていただきました。私の講演は、『坂本龍馬と供に神戸海軍操練所で日本の洋家具は芽生え始まった』でした。懇親会に入り、久々の再開する人や、大阪芸大で、トムに教わった学生迄,たくさんの人たちと、お話ししました。片付けを済ませ、近所のふじよしでの2次会にも参加。本当に、ご苦労さんです。
講演のテキストです。
『坂本龍馬と供に神戸海軍操練所で日本の洋家具は芽生え始まった』
樹望塾 藤本増夫
咸臨丸が、文久2年秋以降、(1862年年末) 太平洋横断時からの水主小頭大熊実次郎は、勝海舟の命により。 大阪船場北鍋屋町専称寺の、勝塾に呼ばれ神戸に海軍操練所を造る為に、働くように命じられ。神戸海軍操練所創設前から操練所のモデルを製作し、必要な資材や人員の手配をしていた。その中に、塩飽船大工の 真木徳助 溝渕和太郎 木本悦次郎らの棟梁がいた。元咸臨丸水主小頭の大熊実次郎が集めた塩飽大工や塩飽水主たちが,神戸で坂本龍馬や多くの塾生と出会い、新しい時代の波に乗ってきた、若武者たちと共に生活して、
海軍の操練技術の中で、これまでの日本の船大工の技術と違ったものを習得したり新しい、考えを話し合い、理解するようになった。神戸海軍操練所に集った塩飽の3人の棟梁は、大熊実次郎と共に、幕府により閉鎖された
神戸海軍操練所の施設を守り、水主たちは、海軍塾の塾生たちを薩摩へ送り届け、そのまま龍馬の、亀山社中〜海援隊の隊士に、なったものもいる。龍馬が暗殺された数週間後、慶応3年年末(1868年1月1日)神戸港の開港時には、神戸海軍操練所が英国領事館となり、施設は付属ドックとして運用されました。その様な中で、塩飽の4人が、働いていた。 諸外国の人たちと出会い、直接生活の中から西洋の知識を得,自分たちの知識と技術で日本の洋家具指物の種を撒き,その後、神戸の地で、芽生えさせる。明治の時代の中で神戸に集った塩飽の3人船大工が洋家具製作技術集団 塩飽指物師の基盤を造っていきました。 神戸における洋風建築、造作、家具。それらの、基礎を造った人たちです。塩飽指物は、お客さんの希望を聞き、お客さんと共に、考え、造っていく、オーダーメイドの考えで永く、仕事を続けて参りました。 けっして、ある時代でフリーズした、黒い色だけの神戸家具ではありません。
塩飽島甲生浦 塩飽水夫 大熊実次郎 神戸海軍操練所 水主小頭
塩飽島笠島浦 塩飽船大工 真木徳助
塩飽瀬居島 塩飽船大工 溝渕和太郎
塩飽島生の浜 塩飽船大工 木本悦次郎
1 件のコメント:
はじめまして。
神戸海軍操練所と塩飽諸島のつながりに関心があり、調べているうちにこちらのブログにたどりつきました。
ここに記述されている内容に大変興味があるのですが、こちらの記述のもとになった「出典」(資料や文献)についてご教示いただけないでしょうか?
突然で恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム