2010年7月9日金曜日

本日は、DDAサマーセミナーだぞ〜


 ディスプレイデザイナー協会に頼まれた、サマーセミナーが、本日夕方開催される。昨日の情報では、50名程の参加者がいるそうです。
塩飽指物についてお話しするつもりですが、いつもの脱線話になると思います。此所で塩飽指物に付いて、調べた事を初めて、ブログに乗せてみます、長いですが読んでみてください。

塩飽指物
近代日本史のなかで、数少ない海洋型文化圏の代表として塩飽衆がその名をとどめている。明治になり幕府御用水軍としての輝かしい歴史も幕を閉じ、塩飽から生活の場を変え、いろんな町で宮大工や、船大工をいとなんでいた、神戸で航洋船の造船所を開設していた元咸臨丸乗組員 大熊実次郎の造船所等で 船大工をしていた中から洋家具造りが始まり、塩飽指物が生まれた。
明治8年塩飽本島笠島浦の船大工 真木徳介が現在の神戸市中央区加納町辺りで 船舶備品修理をかねた 家具の工場を設立する。現在の神戸家具の原点である。それらの船舶内装・洋家具製作の仕事を支えた職人集団を 塩飽指物師と呼ぶ

そのような歴史の中から明治の終わり神戸の二宮にて初代 秀次郎が洋家具造りを始める。藤本秀次郎は1989年明治22年生まれ、塩飽大工の継承者養成所塩飽工業補修学校を明治36年に卒業し、岡山県で大工の弟子をしていたが、母のタミの叔父である真木徳介の弟子になり,洋家具指物を習得する。
大正昭和の荒波の中 秀次郎と弟の正の二人に秀次郎の長男 静夫が加わり建築・造作・家具・船舶装備などの仕事に励む
昭和17年 戦時下の中 初代秀次郎が塩飽本島に新居を構え引退 休業する。
昭和23年 大阪造船木工部を退社した先代 静夫が大阪市港区に藤本木工所を設立、以後 塩飽本島出身者を中心に多くの弟子を育てる。
昭和45年 静夫が病気のため入院 藤本増夫19歳で藤本木工所に戻り、仕事を始める。
昭和62年 有限会社藤本木工所設立  
平成2年   藤本増夫 代表取締役就任
平成7年   樹望塾はじまる。

   神戸洋家具造りの昔

真木徳助氏が、神戸にて、船大工の仕事をし、船舶部品の製造と洋家具の製造を始めたいきさつは、咸臨丸水主小頭大熊実次郎が、幕府海軍操練所を、勝海舟より留守をたのまれ、ドックにて、諸外国の帆船の修理や、メンテナンスをおこなっていた。その仕事に塩飽より、船大工をよびよせ、仕事にあたらせた船大工の棟梁に、真木徳助氏(溝渕和太郎氏らも)がいました。そして仕事の中で、船の中の家具の修理を頼まれたりもしていた。外人が椅子の修理を頼んだら、翌日同じ椅子を2つもってきて、外国人を驚かせたのは、有名な話である。(この話は子供の頃に、祖母 「藤本秀次郎の妻 マキノ」 から聞いた話です。)
帆船の修理や、メンテナンスをおこなうには、多くの木製部品(滑車等の艤装品)が必要になり、それらのものの、製造のため、製作所を加納町に造り、そこで、洋家具の修理と製造もするように、なって神戸洋家具の開祖となる。

明治初期に活躍した塩飽指物師
真木徳助   塩飽本島笠島浦 出身 
溝渕和太郎  塩飽瀬居島 出身
木本悦次郎  塩飽本島生の浜 出身

昭和初期
橘 笠衛門 塩飽本島生の浜 出身
      トーアロード 井上商会(家具輸出業)下請け

咸臨丸水主 塩飽衆

咸臨丸に乗っていた、水夫50人(内35人が塩飽衆)の日本人が、庶民としてはじめて、アメリカの文化にふれ、特にメイ・アイランドでの咸臨丸の修理工事中には、造船技術から、メンテナンス、整備技術、そして、造船所での生活で体験習得した多くのことを、自然体で持ち込んだ人たちだったと思われます。この人たちが,日本の新しい産業や文化に多大の影響を残したのだと、推測されます。
 メイ・アイランドの造船所で作業を手伝って覚えた、多くの技術、宿舎での生活や休日に町にでて、体験した衣食住、生活用具や、食品や、衣類雑貨などの知識、家具の修理製造など多くの技術を身につけ帰ってきたのだと思います。
(横浜開港資料館 伊藤久子研究員の、話によると、武士ではない水主が,見聞きし体験したことが、一番自然にその時代に、新しい知識としてもたらされたのだろう)幕末から明治維新にいたる、大変動の時期に、戦火の中に消えていった人たちもいましたが、この大きな経験は、後の日本国内でのあらゆる欧米の技術発展に役立ったのだと思います。
 神戸の幕府海軍操練所あとでは、神戸に来た,外国船の修理メンテナンスを数人の元操練所関係者(元咸臨丸水主)と塩飽船大工が、営んでいたと思われます。
咸臨丸で渡米した水主が持ち帰った数々の技術や情報が、一緒に仕事をした、船大工に伝わり、家具修理・製作に関しては、神戸の洋家具の基礎となったものだと、思われます。(それが、技術的文化的な継承経過だと確信する)
 咸臨丸が、アメリカから帰ってきたころの塩飽は、大工が一番多い職業で 明治5年(1872)の記録によると塩飽諸島には本島、牛島、広島、手島、与島、瀬居、沙見島、櫃石島、岩黒島、佐柳島、高見島11島からなり、総戸数は2244でそのうち大工職は707、漁業719、船乗り210、農業484、商業25、その他99で、塩飽大工の隆盛さがしのばれる。その塩飽大工が、函館、横浜、神戸、長崎などで、維新前後から、多くの洋館をたてています。その際立ったのが、ロシヤ正教の牧師、ニコライと塩飽大工の関連である、函館で最初に
ニコライのための教会を建てた大工も塩飽の人でそれが、東京での大聖堂建設につながる。ニコライ堂 明治24年  大工 生の浜 岡本鶴蔵が棟梁として建設される。

    塩飽大工との融合

塩飽大工とは?
塩飽大工は幕末期から明治にかけて腕の良いことで有名な塩飽諸島出身の大工の総称である。
塩飽はもともと回船業と造船で繁栄したところであるが享保頃から次第に衰微し、近世末期には造船の技術を生かして大工職に転じ、他国へ出稼ぎに行くようになった。活躍の場は、殆どが対岸の中国地方や関西方面の有名な社寺の造営や町並み造りであった。作品の細部に船大工独特の手法が見られる。
明治5年(1872)の記録によると塩飽諸島には本島、牛島、広島、手島、与島、瀬居、沙見島、櫃石島、岩黒島、佐柳島、高見島11島からなり、総戸数は2244でそのうち大工職は707、漁業719、船乗り210、農業484、商業25、その他99とあり、塩飽大工の隆盛さがしのばれる。中でも大工職は既に嘉永3年(1850)に島外に稼ぎに出たもの、350を数え、船大工の伝統を生かして西日本の各地の寺社に腕を振るい塩飽大工の名を馳せた。
特に有名な大工の棟梁では本島泊の山下呂九衛門、大江太郎右衛門、佐藤伝吉、本島生の浜の橘貫五郎、牛島の山下半左衛門がいた。
塩飽大工の大江家は本島泊の出で国宝吉備津神社を建立した。生の浜の橘貫五郎は総社市の備中国分寺五重塔と善通寺五重塔を親子で建立している。橘家は代々「番匠屋」と呼ばれ、備中に於いては備中国分寺五重塔、高山寺山門、林松寺、正満寺の造営、讃岐に於いては善通寺五重塔、水主神社本殿、脇宮、八剣神社、山北八幡、西大寺、湊川神社など親子で建立している。明治はじめから、多くの塩飽大工が、仕事を求め、函館、東京、大阪、神戸等で活躍する。二代目橘貫五郎の長男 橘実は、塩飽大工として、大阪、広島、東京で多くの建築物を建立し、後、朝鮮に渡り、仁川の近くの水原にある水原ホテルを設計建立し、義弟宮島貞吉と京城にある旧朝鮮総督府を建立した。

明治30年(1897)には大工職養成機関として組合立塩飽工業補習学校が泊地区に設立され、多くの塩飽大工が養成された。「塩飽工業補習学校」とは塩飽大工の本拠地である本島に、建築の専門技術の他に科学的知識や教養を兼ね備えた優秀な大工の育成を目的として明治30年に創立された県内初の工業系学校なのです。現多度津工業高校の前身

ニコライ堂 明治24年  大工 生の浜 岡本鶴蔵
関東大震災で壊れた ニコライ堂の再建については、設計 岡田信一郎、建設請負 清水組 下請け工務店
長尾組 棟梁 長尾熊一 
神戸須磨の住友家別荘が 生の浜 丹羽棟梁が、多くの塩飽大工と、建設した。
その中に明治27年東京帝国大学建築学部を卒業し,住友本社の技師長になった野口孫市に誘われて従事した笠谷熊吉がいました。
笠谷熊吉は,明治39年に神戸の住吉で笠谷工務店を創業し、組合立塩飽工業補習学校の卒業生を多く雇っていました。現在まで塩飽大工、特に組合立塩飽工業補習学校の流れで続いているのが 芦屋の笠谷工務店です。
1906年4月 笠谷熊吉 神戸市東灘区住吉町にて笠谷工務店を創業
私の父の伯父が長尾春治の娘と結婚した、藤本正です。彼は戦後長尾組から別れた 朝日組にたのまれて、鳩山邸の家具を製作していたそうです。

藤本木工所の仕事、明治末から大正、昭和

 父の昔話による。
初代、秀次郎は、本島で育ち、その頃創設された組合立塩飽工業補習学校で、学び明治36年卒業し、15の頃から 岡山市旭川ぞいの大工の棟梁に弟子入り、ひとより小さい体で(身長145cm)川の水汲み蜆取からはじまる朝の仕事をこなし、弟子として年期をあけるまで、苦労して岡山で暮らす。明治41年母のすすめで、大叔父の真木徳助に弟子入り、大工として一人前になったが、体が小さかったので、指物仕事が似合っていると曾祖母のタミは、考えたのだろう。
真木木工所での修行も、あしかけ3年で、明治44年には,二宮で独立、家具指物と大工工事ができる、秀さんとして活躍する。戦前までに棟梁として、家をたてたのも、数十件にのぼり、造作工事(北野町の異人館の廻り階段や、元町商店街の、建築の柱に組込んだショーケースなど、)と家具製作をおこなっていた。昭和16年に義弟の家を本島でたて、続いて、自宅を本島に新築それ以降は戦争のため、休業する。父の話によると、指物大工は、そのころもあまり弁当は持たなくて、昼食は外食か、住宅の仕事で、外人さんの家で、お昼を食べさせてもらうのが一番うれしかったそうです。フランス人の家で、中国人のコックに造ってもらった、昼食のおいしかった事を,年を取ってからもよく話していました。 昭和初期の二宮では、多くの家具職人が個々の作業場で仕事をしていましたが、機械加工は、一か所の機械貸しの工場でおこなっていたそうです。個々の作業場に機械を持ち込むこともできないし、手作業の方が多かったからだと思います。機械工場で、周辺の職人仲間がより、いろいろな話をし、コーヒーを飲みに喫茶店にかよったそうです。

2 件のコメント:

Anonymous julia さんは書きました...

塾長さん、初めまして。函館に住む正教会の信徒です。箱館戦争を調べていたところ、こちらのブログに辿り着きました。
一時期、大阪に住んでいましたが、瀬戸内海は訪ねたことがなく、今頃になって悔やんでます。船で繋いだ歴史も興味深いですが、塩飽諸島も北海道にはない景色で素晴らしいです。

日記のなかで、「函館で最初にニコライのための教会を建てた大工も塩飽の人…」とありますが、こちらの出典を教えて頂くことは出来ますか?箱館の初代聖堂の建設に関わった職人について教えて頂けると幸いです。

2011年11月14日 22:39  
Blogger 酔人漫 さんは書きました...

juliaさん、質問,ありがとうございます。この大工さんについては、資料が少なく、函館の塩飽屋の関係者の昔話にでて、私が、調べている所です。最近、函館丸を造った、続豊治・宇之吉父子が、青森の川内の人である事が解り、川内を調べてみましたら、江戸時代中期から。弁財船の建造を、たくさん行なっており、それを始めたのが塩飽の関係者だそうです。今でも塩飽の出身者の家系が、あるそうです。続豊治は,高田屋の函館の造船所に渡り、その後仏壇を造ったりして、後に函館奉行の指示で、函館丸を建造します。船大工が、建築をするのも普通の事で、特にロシアから来た考えを形にするのには、想像力があり、建物の構造を理解する知恵の持ち主でないと難しいと思います。明治になり、北海道開拓使の資料では、北前船や、洋式帆船の建造では、川内が最大の生産基地でした。回船問屋とは、船の建造で深いつながりをを持っていたのだと思います。ロシア領事館の建設に当たり、川内の船大工が力を貸して、その中の塩飽大工の流れを汲む、大工が造った物と思われます。その関係か、神田のニコライ堂の建築も塩飽大工で、関東大震災で壊れたあとの再建も塩飽大工が行なっております。

2012年2月2日 7:26  

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