2009年3月10日火曜日

咸臨丸の水夫の子孫探し

私のライフワークか,使命なのか、咸臨丸に乗っていた、塩飽の水主の子孫探しが、大きく動いた此のひと月でした。サンフランシスコから,加州日系人慈恵会の関係者が長崎県と香川県に,コルマ墓地に眠る3人の水夫の子孫探しを伝えてきて,長崎県は諌早の吉田さんへ依頼があり,同時期の事務局へ,丸亀市から依頼がありました。私が塩飽の水主の担当でもあり,任されて探しておりますと。広島の青木浦の岡田源之助の子孫が、宇多津にある、塩飽学生寮の経営者の方であると解り。早速電話をしお話を伺いました。塩飽学生寮は,多くの塩飽の若者が,島からはなれて学校に通う為に造った寮である。『創設者の山口嘉次郎氏は明治8年(1875年)に市井に生まれ、塩飽の船大工から身を起こし、明治34年(1901年)に満州へ渡り、材木商を営んで活躍した。「有能な人材育成こそ万事の発展の礎」と考え、昭和12年(1937年)に教員住宅を建て、昭和15年(1940年)年に私財を投じて山口財団法人香川県興亜中学校を高松の屋島山麓に設立し、文字通り亜細亜を興すというスローガンのもと、教育に力を注がれました(興亜中学校は昭和24年に廃止)。その後、丸亀城下に塩飽学生寮を建て、塩飽諸島の生徒を大勢受け入れました。昭和29年(1954年)没。』此のお彼岸に墓参りで塩飽に帰ったら御子孫とお会いする予定です。
 昨日3/13 本島の長徳寺の住職からの電話で、数年前から,子孫の可能性のある方と連絡を取れるように調整していただいていました。
東京にお住まいのお方で,本島新在家の吉之助の子孫である事が解り早速電話をしてお話ししました。吉之助は、小笠原の航海の後函館で千石船の船頭をしていたそうで、名も大倉近兵衛と名乗っていたそうです。そこへ見習水主で入ったのが親戚の渡辺清次朗だそうです。渡辺はその後開陽丸の水主として働き明治になって日本海軍の創世記に頑張った人です。吉之助の御子孫の方は、戦争中に暮らしていた神戸の御影から、疎開をして本島の渡辺の家で生活していたそうで投じ小学校の同級生が、私の父の2番弟子です。疎開の話で、西宮の港から石船に乗り塩飽迄言ったそうでその船が、実は私のおじいさん、大熊文吉の萬栄丸だったそうです。私の爺さんは、大熊実次郎の甥の子です。
来年は、咸臨丸アメリカ就航150周年の記念の年それ迄に後少し水主の子孫探しにも力が入ります。

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